鬼の歌にみるきんたろうの思想
鬼は外 福は内
ぱっぱっぱっぱ 豆の音
鬼はやっぱり 俺でした
泣きました
(生活まとめ13『節分』より)
きんたろうの『節分』で歌われたこの歌、一般的な節分の歌とはかなり趣が異なっています
たとえば童謡『豆まき』の歌詞はこんな感じです
おにはそと
ふくはうち
ぱらっ ぱらっ
ぱらっ ぱらっ
まめのおと
おには こっそり
にげていく
「鬼は外、福は内」そして「豆をまく」ところまでは同じですが、童謡の歌詞では「鬼が逃げていく」のに対して、きんたろうの歌詞では「鬼はやっぱり俺だった」と気づくところで歌詞が終わります
一体これはどういうことなのでしょうか?
本記事では親鸞の「悪人正機説」の枠組みから、きんたろうの鬼の歌を理解することを試みたいと思います
ここでヒントになるのが「鬼がいなかった」というきんたろうの発言です
「鬼がいなかった」→「自分が鬼だった」というのは一見するとつながらないような気がしますが、親鸞の悪人正機説の観点にたてば、それはむしろ「鬼退治をする自分自身中に存在する悪に気づいた」という見立てが可能です。
「悪人正機」というと「悪人の方が優れている」と誤解されがちですが、この思想の本質はそこではなく、むしろ善人の慢心を指摘する点が重要です
節分の時に自分が鬼ではないということを疑うことなく豆をまいている人々に対して、自分が追われる側ではないと盲信すること自体が鬼の性質の一部であることを指摘するきんたろうさんは、自らの善を誇って修行の本質を忘れてしまった修行者を諫める親鸞の言葉とリンクして見えます
そういえばジョジョの奇妙な冒険でもこんなセリフがありました
きんたろうの鬼の歌は自分(あるいは自分たち)こそが正義だと信じ、一方的に正義の力を振りかざす人間というものの普遍的な愚かさを私たちに教えてくれているのかもしれません